心のジュークボックス

家族と日常

音楽には、不思議な力がある。
忘れたはずの記憶を、勝手に回しはじめる力だ。

それを教えてくれたのは、昔あったジュークボックスという機械だった。

喫茶店やボウリング場の隅に、静かに置かれていた大きな箱。
コインを入れても、すぐには鳴らない。

チャリン、と乾いた音。
少しの間。
それから、ガタン、と内部で何かが動き、
レコードがゆっくり回りはじめる。

音楽は、少し遅れてやってくる。

あの“待つ時間”ごと、音楽だった。

形はもう曖昧だ。
けれど、コインを入れる瞬間の、あの小さな高揚感だけは覚えている。

音楽は、ときどき人の心の奥にある何かを、
勝手に動かしてしまう。

そんなことを考えていると、
ある日のことを思い出す。

かなり昔のことだ。

友人たちとカラオケボックスに入った。
分厚いドアが閉まり、外の音が遠ざかる。
リモコンの電子音、グラスの氷が触れ合う音、誰かの笑い声。

順番が回ってきて、マイクを握った。

僕は歌が得意な方ではない。
どう歌ったのかも、あまり覚えていない。

曲が終わる。
伴奏が静かに消える。

部屋の空気は、すぐに元に戻る。
誰かの声が重なり、氷がまた鳴る。

そのなかで、
ふと彼女の方を見た。

誰も気づいていない。

彼女の頬を、
ひと筋の涙が、静かに伝っていた。

胸が、わずかにざわつく。

まわりを少し気にしながら、
何気なく彼女の横に座る。

声を落として聞く。

「大丈夫?」

彼女は少し俯き、
目元を指先で押さえた。

「うん」と言ったのか、
ただ頷いただけだったのか。
そこはもう、はっきりしない。

僕はそれ以上、何も聞かなかった。

ただ、隣に座っていた。

あとになって思う。

きっと彼女は、僕の歌に泣いたわけじゃない。

その曲に重ねた、自分の何かに触れたのだと思う。

僕の声は、たぶんただのコインみたいなものだった。

彼女の心の奥に置かれていた
古いジュークボックスに、
チャリン、と落ちただけ。

コインが落ちても、すぐには鳴らない。

少しの間があって、
ガタン、と何かが動き、
止まっていた時間が回り出す。

機械は、勝手に動く。

思い出は、勝手に流れ出す。

チャリン、という音だけが、
いまもどこかに残っている。

それでも、あの出来事は今も残っています。
細部はうろ覚えなのに、不思議と温度だけは消えません。

年を重ねると、忘れることが増えます。
若い頃の出来事も、顔も、会話も、だんだんあいまいになる。

少し寂しいです。

でも最近は、こうも思うんです。

記憶なんて、うろ覚えでいいんじゃないか。

はっきりしないからこそ、角が取れる。
悔しさも、恥ずかしさも、丸くなる。

残るのは、あのとき確かにそこにいた自分だけ。

心の中には、古いジュークボックスがある。

音も少し曇っているかもしれない。

それでも、ふとした瞬間に鳴り出す。

そして気づくんです。

――ああ、あのとき、確かに何かが鳴っていたんだ、と。

きっと、あなたの心にも。

コメント

  1. 匿名 より:

    こんにちは。
    Xから来ました!ノスタルジックで胸に沁みました。
    また、読ませて頂きますね^_^

                 志津 早織

    • zeroich_papa zeroich_papa より:

      はじめまして、コメントありがとうございます。
      すごく励みになりました。
      これからもゆっくり書いていきますので、
      またふらっと覗きに来ていただけたらうれしいです。

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