世界が一変した、あの大ブームの夏
今から数年前。あの大ブームが巻き起こった夏、世界は一変しました。 僕が軽い気持ちでインストールした『ポケモンGO』は、いつの間にか高校生だった娘の日常をも侵食し、僕たち親子を真夜中のドライブへと連れ出したのです。
「不忍池が、いま一番アツいらしいよ」
娘のその一言で、ハンドルを握る手に力が入ります。 半袖の腕にまとわりつく、ねっとりとした夜の湿気。 スマホの充電は満タン。予備のモバイルバッテリーも用意して、「戦闘態勢」はバッチリ整えたつもりでした。
聖地・不忍池に広がっていた「異様な光景」
車を降り、不忍池のほとりに立った瞬間、僕たちは言葉を失いました。 暗がりに揺れる、無数のスマホの光。 そこには観光客など一人もおらず、人々は皆、画面を見つめて同じ方向へとぐるぐると歩いていました。
当時の不忍池は、ポケモンGOの「聖地」と呼ばれていました。 観光する人などいません。みんな同じ目的で、ただ黙々と歩き続けている。
次の瞬間でした。 「パパ、あそこに人だかりできてるよ」 振り向くと、娘が少し驚いた顔で指をさしています。
人見知りの娘が、夜の闇で声を上げた瞬間
もともと娘は人見知りで、人混みを避けるようなタイプの子でした。 それなのに、その夜の彼女は迷いなく人の波へと歩き出していました。
「パパ、あっち!」
焦っていて、でも弾んだ声。僕はその背中を必死に追いかけました。 ざわめきが一気に「動き」へと変わります。 早歩きが小走りになり、どこからか歓声が上がる。 気づけば、僕たちもその熱狂の流れの中に飲み込まれていました。
娘は少し後ろから、でも確かに僕と並ぶようにして歩いています。 あの引っ込み思案だった娘が、見ず知らずの人たちに紛れて声を上げている。
「パパ、捕まえた?」 「いや、逃げられた……」
当時は「個体値」なんて難しいことはわからず、とにかく「CPが高いほうが強い」と信じ込んでいた初心者の僕たち。 そう答えると、娘はスマホの画面を見せて誇らしげに笑いました。 「私は捕まえたよ!」
その時の顔は、見慣れたいつもの娘の顔でしたが、どこか誇らしげで、輝いて見えました。
「ツワモノ」たちの装備と、僕たちの限界
見ず知らずの人たちと、同じ瞬間に喜び、同じ瞬間に落ち込む。 まるでお祭りの中にいるような、不思議な一体感。 僕たちは時間の経過も忘れ、ただ夢中で不忍池を歩き回っていました。
やがて、その時間は唐突に終わりを迎えます。 「あ、やばい……充電……」
どれだけ準備したつもりでも、画面はもう限界でした。 顔を見合わせて、僕たちは小さく笑いました。
周りを見渡せば、まだ多くの人が動き続けています。 猛者(ツワモノ)たちのリュックには、山積みの乾電池。 電池式の外部電源を使い、この夜を終わらせる気配など微塵もありません。 けれど、僕たちの「夜のピクニック」は、そこで幕を閉じました。
一度きりの贅沢な「父娘のデート」
帰りの車内では、「さっきの惜しかったね」「あのポケモン、すごかった」と笑い合いました。 ふと訪れる少しの沈黙も、不思議と心地よいものでした。
「また来ようね」
そう約束したけれど、結局、二度目が訪れることはありませんでした。 娘も成長し、あの異常なまでの熱気も少しずつ落ち着いていったからです。
それでも、あの夜のことは今でもはっきりと思い出せます。 湿った夜風。スマホの光。 そして、人混みの中で――。 人見知りのはずの娘が、誰より楽しそうに声を上げていたこと。
あの時間は、きっともう戻りません。 だからこそ、あれは僕にとって一生ものの、贅沢な「父娘のデート」だったのだと思うのです。


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